2008.11.16

深く生きる

 言葉は思考や概念を形成する大事なもの。その言葉を、どれだけ意識的に発しているか、と問われたら、過去の私はまったく成り行き任せに、深く吟味せずに、まったく無自覚に発してきたと言える。言葉にこだわり、言葉を大事にしたいと思っていたのに、話言葉は、あまりにも無自覚、無防備に発してきた。

 書き言葉は、後に残るから、かなり意識的に客観性を確保してきたし、パソコンで書く文章は、訂正、削除がいかにも簡単で、推敲が可能だ。だから、書き言葉には、ある程度、自信がある。

 この2年間で、9回の連続的な、気光的表現の勉強会が昨日終わった。振り返れば、たくさんの「言葉」に深く出会った。内観と合わせて、同時進行してきたので、たくさんの気づきを与えていただいた。

 言葉に頼りすぎている、もっと感性を働かせなさいと教えられたこともある。昨日も、深く学んだ。タイトルに書いた言葉、「深く生きる」という言葉も、いい言葉だなあと思う。そう、深く生きたい! 
 生まれてきたからには、深く生きたい。この世の欲に振り回されず、本物の人生を選びたい。そのために、すべてをゼロに戻したのだから。

2008.11.04

「歌う」という表現の力

 ボイストレーニングのコーラスグループに通いだしてから1年3か月が過ぎた。発足して2年くらいの日も浅いグループだが、先生がかなり専門的指導力を惜しみなく発揮してくださるので、楽しく、得ることも多い。
 先日、この秋の2回のコーラスの発表会を終えた。今日はその発表会の時、会場に来てくださっていた会員のご家族が録音してくださったテープをみんなで聞いて反省会をした。また、新らしく入ってくれる人も来ておられたので、自己紹介を1人ずつしていった。
 それを聞きながら思った。みんなが対等に、のびのびと発言できる雰囲気の中では、わずか1年で、人はこれほどに人とつながり、自分をオープンに開いて話ができるようになっていくのだなあと。1年前に私が入った頃とは格段の差がある。
 人は伸びる。年齢に関係なく伸びる。「私は変わりたい」「表現したい」という動機さえあれば、安心して話して良い環境の中で、同じ目的をもった人たちがつながれば、これほどまでに伸びるんだなあと感動した。
 ボイストレーニングという言葉にひかれてきた人たちは、みんなそれぞれに課題を持って集っていた。決して歌がうまい人たちばかりではなかった。どちらかというと、おとなしそうな人や引っ込み思案な人もいた。なのに、これほど、しっかりと自信を持ってユーモアをもって自己紹介ができるようになっていた。
 それは私にとって大きな発見だった。これぞ歌の力。「自分の声で、私だって表現できた」と思うとき、みんなと一緒に、力強く気持ちよくのびのびと歌えた時、自分の力、みんなの力に気づく。まさにエンパワメントそのものの体験だった。
 皆さん、ありがとう。そして先生、ありがとうございました。

2008.10.22

秋、散策の季節

 最近3日ほど、滋賀県大津市と、神戸市の垂水区を歩いた。湖西線の山並みは心癒されるので大好きだ。山辺を歩き、琵琶湖に出て、誰もいない水辺で一人、ゆったりと時を過ごす。
 垂水区の市場では、お魚の安さに驚いた。小さいタイが1匹100円、太刀魚が2匹で300円とか。漁港が近いので安いそうだ。垂水区の山の上に開発された丘から神戸市内を見渡せば、神戸市がいかに大規模開発を行ったか、よくわかる。バスに乗って、町を見て歩くと、種々の発見があって楽しい。適当なところで降りて、ひたすら歩く。
 坂の街、神戸。神戸の坂はきつい。駅前の放置自転車がないのもうなずける。自転車は歯がたたないだろうなあ。滋賀県の坂は、なだらかで歩きやすい。駅前の駐輪場は繁盛していた。町を見ることはおもしろい。
 
 今日の新聞には、芦屋の男性が相続した土地6300㎡を市に寄付したと載っていた。一部は、以前から市の保護樹林の指定を受け、市民の開放されていたという。緑を守りたいという故人の遺志を生かしたいと思ったという。現在の相続制度では、土地を所有しながら緑を守るのは難しいと判断したという。記事を読みながら、がんこに「緑を守る」と意思を貫いた故人が亡くなったら、開発業者が次々と押し寄せて来るのだろうと想像した。
 父もみごとなら、子も立派。先祖が残してくれた土地は、子孫の宝。みどり豊かな芦屋を守りたかったんだろうなあ。これぞ、日本人の心意気。ジーンと響くものがある。

 昨日は、コーラスグループで発表会の歌を練習した。思いっきり歌うと、翌日は足腰から腹筋までが軽く筋肉痛となるから、歌うということはいかに筋肉を使うかよくわかる。何はともあれ、元気で自由に、自分の心を偽らずに、生きていられることに感謝しよう。

2008.10.10

朝日新聞、パワーハラスメント連載中 

 朝日新聞、生活面で、「あなたの安心」というテーマで、「パワハラを防ぐ」という連載をしている。
 パワハラをされている本人は、その真っ只中で悪戦苦闘している時には、それと気づかないし、気付きたくない。誰だって、自分が被害者になっていると自覚することは、苦痛だ。プライドが自覚することを妨げる。特に、議会のように、強さが求められる世界ではなおさらだ。いま、もう闘わなくてもよい状態になって、はじめて、自分が受けてきた理不尽なパワハラを、見つめることができるようになった。
 強烈なパワハラ体験から2年の月日が経ってやっと。あれは忘れもしない18年の10月16日のことだった。平成17年度の決算審査特別委員会での席上、私は強烈なパワハラ攻撃を、長時間にわたって受け続けた。
 議員時代のHPに、そのすべてを書いてある。読んでもらえば、パワハラの具体例が詳細にわかるはずだ。委員長という、質疑応答の指名権を握った人物が、明らかに私の質疑だけに、しつこく介入し続けた。そして、その必要もまったくないのに、真夜中の1時まで、審議の引き延ばしを強硬におこなって、発言を意図的に封じこめた。

 その理不尽さに、私の怒りは頂点に達した。周りの人たちは、みんな見て見ぬふりをした。誰も委員長の横暴に、一言も抗議さえしなかった。パワーハラスメントのパワハラたるゆえんだ。権力を持って、異常なまでに、それを振り回している人間を誰も止める勇気はない。

 それは私の孤立感を深めた。社会的正義が徹底的にないがしろにされるのを目にして、まともな感覚でいられる人間はいない。私のトラウマは、いまだに、記事を読んだだけで、フラッシュバックして、怒りと悲しみがこみあげる。心の深い傷=トラウマは、時計の針を止めてしまう。

 もちろん、パワハラは1回だけのことではない。継続的なパワハラはそれ以前にもずっと続いていた。それはだんだんひどくなっていた。しかし、私は自分の精神力を信じていたから耐えられると思っていたし、政治的信念と、使命感、市民の応援に支えられていたからどうにか耐えてきた。呼吸法や太極拳等、感情を自己コントロールできる方法を知ったことも大きかった。だが、人間には暴力に耐えられる限度というものがあることを、その時知った。限度を超えたとき、人はトラウマを抱え込んでしまう。人間を肯定的に見られなくなる。
 この1年半、会う人ごとに、「なぜ、議員を辞めたんですか?」 と何の悪気もなく聞かれた。だが、それは私にとっては辛い問いかけだった。なぜなら、そう問いかけること自体が、私の辛さがまったく伝わっていない表明だから。そして、そのたびに、私は自分の生々しい傷口に向き合わざるを得なかった。

 過去を引きずるなと、人は簡単に言う。私も人にはそう言ってきた。しかし、過去の傷にどう向き合い、どう回復させていくのか、頭ではわかっても、感情は容易には癒せない。だからこそ、暴力を許してはいけない。見て見ぬふりをすることは、加害者に加担することだ。

パワハラは、日本語の造語で、欧米ではモラルハラスメントというらしい。その時、それを制止できない集団は明らかに病んでいる。
 
 

2008.09.30

政治家の発言、レベルの低さは何を警告しているか

 「国家の品格」が売れると、すぐに「女性の品格」という本を女性が書き、マスコミの大宣伝の結果、売れたようだ。不思議なことに、一番問われるはずの「男性の品格」という本は出ないなあ。しかし、いま、一番問われるべきは男性の品格だろう。
 橋下知事の「クソ教育委員会」という言葉や、任命5日目で辞任した大臣、名前を覚えるひまもなく、覚える価値もないような無知蒙昧な発言を、「自らの信条だ」といいきって恥じない人もいた。大臣以前の国会議員としてもなぜ当選したのか不思議に思う人も多いだろう。まさに、政治家の品性も問われる時代になったとつくづくと思う。

 テレビ受けすれば、選挙で有利。不満をくすぶらせている人たちに受けるには、過激な言葉と、「ぶっつぶす」というような闘いのポーズを取れば良いとばかり、小泉パフォーマンスの効果を信じ込んで調子に乗っている人たち。醜いというか、あさましいというか、まともに批判するのもあほらしいと思っている人も多いだろう。
 新聞で批判しても、テレビで批判しても、批判も知名度のうちである。顔を知ってもらわねば、知名度が上がらねば人の口には上らず、票にはならない政治の世界である。

 辞めた大臣の事例は、激変する社会についていけないけれど、地盤、看板が強いおかげで選挙で生き残ってきた人が、政治の表舞台にたって公人として発言せねばならない立場に立ったとき、5日ともたなかったというお粗末なお話。国会議員としての長いキャリアはなんだったのだろう。一体、人々はこの人の何を評価して票を入れてきたのだろう。一票を投じた人が、自らの責任を感じない限り、また、次回の選挙でも当選するのが悩ましいところ。

 格言に、「多数の人を一時的にだますことはできる。少数の人を長い間、だますこともできる。だが、多数の人を長い間だますことはできない」という言葉がある。

 忘れていけないことは、多数の人が一時的にだまされている間に、世の中が坂を転げるように、急激に悪くなっていくこともあることだ。政治の恐ろしさは、まさにそこにある。だから、政治をあなどってはいけない。馬鹿にしてはいけない。

2008.09.02

アフリカ「母たちの村」を観て、日本を振り返れば

 昨晩は、BSジャパンで放送された「母たちの村」を見た。アフリカのセネガルでは、女子割礼が行われている。女性の性器切除を行うという無茶苦茶な児童虐待を、「イスラム教の教えが求めている」と言って強制している。小さな女の子たちが、恐怖にかられて助けを求めて逃げ込んだのは、娘に割礼を施さなかった女性の所。その女性が村の強制的な伝統と闘う中で、周りの女性たちや、男性たちが間違いに気づいていく物語だ。

 カッターナイフのようなもので行うので、ひどい時には、死亡する。その女性も姉たちを死亡させてしまい、最後に生まれた女児だけは守ることができた。だから、絶対に後には引かない。
 女の子がラジオを聞いて、イスラム教国でも、そんな伝統的強制が、他の地域では行われていないことを知って反抗的な言葉を吐くようになったと思った村長や長老たちは、女たちからラジオを取り上げて広場に集めて焼いてしまう。女たちを無知に閉じ込めておきたいという男たち。

 人の思い込みが、時としてどれほど残酷なことを強いることがあるか。それが宗教や、村、国等の風習や慣習となれば、枠外にいる人から見れば、命を奪う高リスクの人権侵害であっても、なかなか改めさせることは難しい。アフリカのことではないか、と思うなかれ。

 日本だって、女性たちの人身売買が横行しているし、先進国と言われている国だって児童の臓器売買が深刻な問題になっているという。振り返れば、「援助交際」などという造語をつくってまで、買春に伴うやましさを薄めようとしている男文化。言葉の汚染は見る目を曇らせる。心を腐らせる。

 学校教育で、現場の教師たちがまともな性教育を実践すれば、早速に「性教育バッシング」を国会で女性議員にやらせ、全国の教育委員会に自民党が調査書を送って圧力をかけ、「ジェンダー」という言葉狩りをしたのを忘れてはいけない。寝屋川市の教育長も、かつて、私にいきようようと言い放った。「ジェンダーと言う言葉は使ってはいけないことになりましたよ」と。 女子たちに、世界の流れを教えずして、無知の世界に閉じ込めようとしていると言えないだろうか。

 一方で、町中にあふれるポルノ雑誌やコミックマンガを通じて、女性を物化する非常に歪んだ性情報を野放しにして、何が青少年健全育成か? 男たちへの性情報の氾濫はどうしたことか。人権侵害もはなはだしい。まさに、本音とたてまえのダブルスタンダード。
 日本の文化と政治のレベルはコンビニで一目瞭然、隠しようもないl。外国から来た人たちが、日本のコンビニと本屋さんに入って、わが目を疑い、びっくり仰天しているのを知らないのだろうか。沖縄に来たアメリカの軍人がレイプ事件を起すのも、こうした日本の文化が影響していないと断言できる人がいるだろうか。

 ことほどさように、自分の国の文化と風景の異常さには、気がつかないものだ。国連の調査では、日本の女性の地位は、世界で54番目。民間の調査では91位の低さに位置している。日本女性の発言力の低さ、経済力の低さ、家に閉じ込め、無知のままに据え置こうとしているという点は一緒だと思う。少し、距離を持ってこの国を、女性の人権の視点を持って分析すれば、誰も「母たちの村」を笑って見られる人はいないはずだ。
 
 裏返せば、女性の人権から、政治、文化を観ることができない人が多数を占めているからこそ、こんな社会がまかりとおると言える。まさに、「母たちの村」は、私たちの国に通じる。

2008.08.30

女性を看板に使う、男社会にノー!

 アメリカの民主党候補オバマ氏(47歳)が大統領候補の受諾演説をする日、共和党のマケイン氏(72歳)は若い44歳の女性を副大統領候補に選んだと公表した。この絶妙なタイミング、クリントン敗北で揺れる支持者の女心をつかもうというたくらみが功を奏すかどうか? 男社会の常套手段の切り札、「女の使い方」だ。

 洋の東西を問わず、苦境に立つと、マスコミ映りを考えて、若い女性を立てて話題をつかみ、人気を維持しようとするのは、最近の姑息な常套手段と言える。小泉も田中真紀子をうまく使った。それ以後の内閣も、飾りのように看板女性を大臣に起用している。

 同じ日、日本でも、姫井由美子(49歳)氏が民主党を捨てて、新党に倉替えしようとしたが、民主党首脳が必死になって説得したのだろう。断念した。政党の力で当選させてもらったのだから、民主党としたら当然のことだろう。看板で当選させてもらった弱みがあるのに、これまた新党旗揚げの看板に使われるところに乗った甘さがある。

 世の中にいろいろな差別があるが、「女性は最後の植民地になるだろう」と喝破したフェミニストがいる。民主党候補争いは、それをまざまざと見せ付けた。しかし、ヒラリー氏は最後まで全力で闘った。内心は複雑だったろうに、最後には民主党の支持者に一致団結しようと訴えている。強い女性だと思う。
 
 キング牧師が信じて訴えた夢が実現に近づいているように、いつの日か、女性が男社会を維持するための看板でなく、自分の力で立ちあがれる社会が来る日を信じたい。

2008.08.17

嘉田知事、学問を現実に生かす力

 今日は、滋賀県の大津市で開催された、堺市議の長谷川俊英議員が主催する勉強会で、初めて直接、滋賀県の加田知事のお話をお聞きした。ちょうど、岡山の横田悦子県議、香川県の渡辺さと子県議も、来ていて、久しぶりに話に花が咲いた。私たちは、おもしろいことに、いろいろな勉強会でぱったりと一緒になる。

 嘉田知事のことは、箕面市の増田京子議員に「しっかりした考え方をもった人だよ」って聞いてたのに、直接、お話をお聞きする機会は今日までなかった。
 彼女の話を聞いた感想は、まさに、社会学を学んだ学問の力を土台に、現場で生活者の言葉を聴いてフィールドワークをして学び取ったことを、実際に政策として生かしていくために、わかりやすく伝える工夫をこらし、実際に多くの人の協力を得ていく力、粘り強さ等、総合的な力量を持っているなあということだった。

 その土地の歴史と社会学の学問に裏打ちされた力、実践的政策フィールドワークとも言える知事としての仕事振りの一端と、その考え方をお聞きしながら、滋賀の自然を愛し、自然と調和して暮らしてきた人々の暮らしの智慧を、取り戻したいと願っている人なんだなあと思った。

 だから、政治的立場を超えて、多くの人にその願いが伝わったのだと思う。「脱政党」でなく、「超政党」を掲げたという知事の言葉になるほどと納得がいった。とにかく多くのことを感じとることができて、感動した。

 たぶん、それは、今回、初めて湖西線に乗って、大津市と合併した元志賀町を訪れ、とても静かで素敵な景観に感動していたことも手伝ったのだろう。山と湖、両手に花のような素晴らしい地形だ。嘉田知事が地理も歴史も愛したのも無理からぬこと。私も大好きになった。やはり自然は何ものにも替えがたい価値がある。人を癒す力に満ちている。

2008.08.11

トラウマ、グリーフケア

 土、日と、「心のケア講座・ファシリテーター養成講座」の2回目に通った。今回のテーマは、喪失とグリーフケア、トラウマに対応するツール、パートナーシップ等だった。私は自分がいかに大きな喪失感を抑圧して抱えこんでいたかを悟った。グリーフケアの講座の間中、約2時間、ずっと鼻水が止まらなかった。バッグの中のポケットティッシュが2つ分、すぐになくなってしまったほどひどかった。(笑) 

 12年間の議員生活で、理想が高ければ高いほど、現実とのギャップは大きく、現実の議会と行政に絶望的にならざるを得ないことはたくさんあった。辛いこと、悔しい体験は山ほどあった。だからこそ、私は人前では泣くまいと、涙は見せまいと決心し、努力してきた。
 だからかしら? 涙は目にいっぱい溜まるが、あふれて流れ落ちることはなかった。でも、鼻水があふれて止まらなかった。人に言うと、「まだ涙腺が閉じてるんやね」って。へ~、そんなことってあるのかしら? 

 大きな喪失感とは? 言葉にできない、感情の底に押し込め、ふたをしていたので外に出られなかった深い大きな喪失感が、鼻水とともにあふれ出てきたかのようだった。氷のように凍結されていた感情が、解凍されて溶け出してあふれだしてきたかのようだった。

 周囲の人に言うと、「良かったね」と喜んでくれた。世間一般では、不思議な反応でしょ? 私もちょっと意外だった。 でも、さすが、みんな学習しているだけあるなあ。学ぶ事で、頭を整理し、深い悲しみの感情を解凍することで、グリーフも、トラウマも少しずつ癒されるということを知っている。

 それにしても、人の心とはなんとデリケートなものか、そして、奥の深いものか。気光内観、暴力と傷つきの学習、さまざまな学びが、人間理解を深めてくれる。社会と人間、人の外と内。自然と人間。学びつつ、模索できる幸せに感謝しよう。

2008.08.08

ファンドレイジングの講座を受けて

 先日、ファンドレイジングの講座に出席した。講座内容は、NPOがどうやって自らの資金を獲得して活動を続けて行くかという資金調達のための講座で、講師はアメリカに研修に行ったNPOの若い女性2人の体験を通して考えるものだった。
  ここでクイズです。アメリカは年間20兆円の寄付金が集まるそうです。これに比して、日本はいくらでしょう? アメリカのDV女性支援のための民間シェルターはいくらあるでしょう。日本はいくつ? 

 答え 日本は2000万円だそうで、1%に過ぎません。シェルターの数はアメリカは約2000くらい、日本は100あるかどうかというところらしいです。
 
 アメリカは人口比で言うと、日本の3倍の国です。寄付金20兆円という文化、日本はわずか1%という文化。その違いの中で、日本のNPOが運営資金を確保していくのは並大抵でないことはおわかりいただけるでしょう。だからこそ、現在は、行政に頼らざるを得ないところがあるのです。
 講師いわく、「私が派遣された研修先は、年間46億円の募金を達成目標にして、やりとげました。」その団体は、教育や福祉関係のNPO等に絞った登録100団体に、募金を配分するのだそうです。日本にも寄付金を獲得して配分してくれる団体があったら、どんなに助かることでしょう。

 寄付金文化の浸透したアメリカでさえ、寄付金獲得の専門団体があるということは、裏返せば、寄付金獲得には、かなりのノウハウと組織力、信頼性が必要なことがわかります。つまり長年の経験と実績が必要なのです。それなくして、世間から見れば、昨日立ちあがったかのような知名度のないNPOに、「自力で寄付金を獲得しろ」だの、「ボランティアで好きでやっているんだから、嫌だったら辞めたらいいんですよ」と、偉そうに言い放つ公務員は、よほど世間知らずで、苦労知らずのおめでたい人間なのです。信じられないことですが、実際、そう言い放つ人がいるのです。
 
 NPOが資金に四苦八苦している1つの例を挙げましょう。私が知っているDV被害者の支援をやっている女性団体の場合、シェルターや事務所費等の年間運営資金は1000万円を必要とします。(公務員の人件費コスト1人分強のお金です。)なのに、行政からの支援は削られる一方で、県・市合わせて、今年はわずか68万円です。
 そこで民間助成金を確保するために、助成金書類を山ほど書かねばならず、自己資金を確保するために、講演会の講師等に走り回り、資金確保のための事業を次々と実施しなければなりません。どれも数万円から数十万円規模のものをせっせとかき集めているのです。涙ぐましい努力です。
 
 団体の悩みは、肝心要の支援活動に全力をそそげないことと、人件費が出せないためにスタッフの確保が難しいことです。支援の志あふれている人材、被害者支援のノウハウと経験・実績・技術力を蓄積してきた人材が、その力と時間を資金確保のために使わされることで、消耗し、疲れ果てているのです。
 
 なんと無駄な、もったいないことをさせている社会かと思います。見ていられないので、なんとか手助けできないかと、おせっかいおばさんよろしく勉強し始めたところです。(笑) 資金調達なんて、私の一番不得意な分野なのに。(笑) 

 しかし、しかしです。一生食うに困らない人生を保障された上に、裏金を作って飲み食いしてきた公務員社会。裏のコネで教員採用試験を突破した教育委員会の構造的癒着。領収書をつけないでもよかった議員の政務調査費の使い方のずさんさ。さまざまな世の中の不合理が横行していることを知ったがゆえに、余計に必要なところに税金が使われないことの理不尽さに怒りが沸きます。

 でも、怒ってばかりいては身体に悪い。(笑) まともに税金が使われる社会になりますようにと、祈りましょう。人々の良心が少しずつ、世の中を変えていくことを信じて、祈りましょう。8月の敗戦記念日も近いことだから。理不尽の極みである戦争で殺された人々のためにも祈りましょう。考えを深めながら、学びながら、祈り続ける気持ちを持ちましょう。必ず、いつか力にできるはずです。

 明日、明後日もこの熱さに負けず、2日連続勉強会です。さてさて、今回はどんな発見があるでしょう?
 

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