2009.02.14

自然が一番

 駅の階段を降りると、目の前は海だった。砂浜を歩いて海に張り出した突堤を歩く。水は信じられないほど澄んでいる。まさに都会の田舎に暮らすという贅沢な時を過ごしている。今日は雨あがりで、春の嵐が吹くという。でも、新しい住まいは、穏やかに太陽が降り注ぐ。
 見渡せば、海の向こうに大阪が見える。夜になると、大阪の火が沖合いに遠く見えている。月も星もきれいに見える。毎朝、窓を開けるたびに、朝陽と海と山が見える。ああ、私はやっと自分の感性に合った土地に来たのかなあと思う。風で木がさやさやと揺れる音が聞こえる。小鳥が鳴いている。そういえば、階下の人が、「今年はカブトムシが飛んできたんですよ」と言っていた。
 長い間、自分に合わない土地で、無理して暮らしてきたんだなあと思う。都会の田舎、2つのバランスの中で、自分らしく暮らそうと思う。 メール使えるようになりました。
 

2009.01.24

心機一転

 新しい年、今年は3つも出発があります。まさにすべてにおいて心機一転の時を迎えたのです。動く時はすべてが動くのですね~。
しばらくの間、メールもHPも見られません。ご連絡は携帯へお願いします。
 もうすぐ私の誕生日です。今年の誕生日は、すがすがしく、忙しく、明るい心で迎えられそうです。
真冬生まれの私は、冬の夜空にしんしんと輝く月が大好きです。その孤高の光は、人生の厳しさを教えてくれます。「しっかりしなさい」と気をひきしめさせてくれます。人生、再出発です。

2008.12.30

アンテナを上げて、エンパワメント

 オシム監督の言葉、3つをテレビで紹介していた。1つ、日本の選手には自分で考え判断させる体験を与えることが必要だ。2つ、成功は危険でもある。3つめはその時はなるほどと思ったがどうしても思い出せない。つまり、いまの私のアンテナにはひっかからなかったということ。受け入れる自分のキャパの問題もある。
 新聞で、榊原英資さんの本「スピード思考力」の紹介があった。なるほどと思うことが多い。最近、やっと、前向きなアンテナが立ってきたなと思う。挫折した時は、アンテナがポキント折れた状態なのだろうか、どうも感度が悪くなる。いや、マイナスのアンテナにチャンネルが切り替わるんだろうか。
 最近、やっとアンテナがプラス志向に切り替わった。頭が言葉に反応し始めた。意欲がわくようになってきた。ありがたい。ありがたい。
 動物は病気になると、じっと動かず、何も食べずに自然治癒力に任せて治すという。私もすべての関係を切って、自分がしたいと思うことだけをしてきた。立ち直る力は誰もが持っている。
 社会もそうかもしれない。ひどい社会になっていくばかりのようだけど、一人ひとりがこれではいけない、良くしようと願えば、少しずつでも立て直すことはできるかもしれない。そう、信じたい。

2008.12.21

けなげなる者、滅びゆくもの

 議員を辞めて、いま、久しぶりに、女たちの世界で関わりだした。お金にはならないけれど、女たちが抱えているたくさんの困難を切り開いていこうとして、力を寄せ合って仕事をこなしている人たちと一緒に歩きだしている。そして思う。社会にとって、とても重要な仕事を、しっかりとできる人たちに、まったく行政の予算がつかない現実の理不尽さを。人の命や人生に関わり、誠心誠意仕事をやっている人たちにまったく行政の金がつかない。議員の生態と、行政の体質を12年間、観察してきた人間としては、なんとも世の中は不思議な仕組みになっているものだと、つくづくと思う。

 振り返れば、議会というところは面白いところで、「議論して結論を出す」という社会的使命をになっており、「議論こそ命」のはずなのに、多数の議員は議論することを極端に嫌がる人々によって構成されている。彼らは、少しでも会議時間を短くすることに、熱心に取り組む。つまり、議員本来の仕事に、自らの価値を置けない人たちだ。彼らは表面どんなにとりつくろっても、心からの誇りを感じることはないだろう。

 堺市議会で、議会改革案なるものが出ていると新聞に載っていた。少数会派の議員の質問を制限しようというのが見え見えの内容だ。議論ができる議員を、みんなで口封じしようというわけだ。
 一握りの議員が、普通の市民感覚でものを言うと、とてもうっとうしく感じるらしい。どこの議会も、そういう人たちが多数を占める。
 選んでいる市民は、そんなことには責任がないとでも思っているらしい。知らん顔だ。似たりよったり、どこの議会も、同じような課題を抱えている。そしてその積み重ねが国会だ。国の政治のありようだ。

 その結果は、いまの政治や社会を形作る。貧困、うつ病、世界一の老人の自殺率の高さ、障害者の生きにくさ、女性と男性の格差は、民間調査で128か国中98位となった。昨年は91位だった。下がるばかりだ。
 女が生きにくい社会では、少子化は止まらない。子どもは未来に希望を抱けない。なぜなら、母の不幸は子の不幸だから。母が不幸なのに、子が幸せに育つはずがない。
 それでも、男たちは、「日本の男社会の異常さ」に、気付かないふりをし続ける。内部崩壊の深刻さに気付いた時には、もう遅すぎるだろう。
 

2008.11.16

深く生きる

 言葉は思考や概念を形成する大事なもの。その言葉を、どれだけ意識的に発しているか、と問われたら、過去の私はまったく成り行き任せに、深く吟味せずに、まったく無自覚に発してきたと言える。言葉にこだわり、言葉を大事にしたいと思っていたのに、話言葉は、あまりにも無自覚、無防備に発してきた。

 書き言葉は、後に残るから、かなり意識的に客観性を確保してきたし、パソコンで書く文章は、訂正、削除がいかにも簡単で、推敲が可能だ。だから、書き言葉には、ある程度、自信がある。

 この2年間で、9回の連続的な、気光的表現の勉強会が昨日終わった。振り返れば、たくさんの「言葉」に深く出会った。内観と合わせて、同時進行してきたので、たくさんの気づきを与えていただいた。

 言葉に頼りすぎている、もっと感性を働かせなさいと教えられたこともある。昨日も、深く学んだ。タイトルに書いた言葉、「深く生きる」という言葉も、いい言葉だなあと思う。そう、深く生きたい! 
 生まれてきたからには、深く生きたい。この世の欲に振り回されず、本物の人生を選びたい。そのために、すべてをゼロに戻したのだから。

2008.11.04

「歌う」という表現の力

 ボイストレーニングのコーラスグループに通いだしてから1年3か月が過ぎた。発足して2年くらいの日も浅いグループだが、先生がかなり専門的指導力を惜しみなく発揮してくださるので、楽しく、得ることも多い。
 先日、この秋の2回のコーラスの発表会を終えた。今日はその発表会の時、会場に来てくださっていた会員のご家族が録音してくださったテープをみんなで聞いて反省会をした。また、新らしく入ってくれる人も来ておられたので、自己紹介を1人ずつしていった。
 それを聞きながら思った。みんなが対等に、のびのびと発言できる雰囲気の中では、わずか1年で、人はこれほどに人とつながり、自分をオープンに開いて話ができるようになっていくのだなあと。1年前に私が入った頃とは格段の差がある。
 人は伸びる。年齢に関係なく伸びる。「私は変わりたい」「表現したい」という動機さえあれば、安心して話して良い環境の中で、同じ目的をもった人たちがつながれば、これほどまでに伸びるんだなあと感動した。
 ボイストレーニングという言葉にひかれてきた人たちは、みんなそれぞれに課題を持って集っていた。決して歌がうまい人たちばかりではなかった。どちらかというと、おとなしそうな人や引っ込み思案な人もいた。なのに、これほど、しっかりと自信を持ってユーモアをもって自己紹介ができるようになっていた。
 それは私にとって大きな発見だった。これぞ歌の力。「自分の声で、私だって表現できた」と思うとき、みんなと一緒に、力強く気持ちよくのびのびと歌えた時、自分の力、みんなの力に気づく。まさにエンパワメントそのものの体験だった。
 皆さん、ありがとう。そして先生、ありがとうございました。

2008.10.22

秋、散策の季節

 最近3日ほど、滋賀県大津市と、神戸市の垂水区を歩いた。湖西線の山並みは心癒されるので大好きだ。山辺を歩き、琵琶湖に出て、誰もいない水辺で一人、ゆったりと時を過ごす。
 垂水区の市場では、お魚の安さに驚いた。小さいタイが1匹100円、太刀魚が2匹で300円とか。漁港が近いので安いそうだ。垂水区の山の上に開発された丘から神戸市内を見渡せば、神戸市がいかに大規模開発を行ったか、よくわかる。バスに乗って、町を見て歩くと、種々の発見があって楽しい。適当なところで降りて、ひたすら歩く。
 坂の街、神戸。神戸の坂はきつい。駅前の放置自転車がないのもうなずける。自転車は歯がたたないだろうなあ。滋賀県の坂は、なだらかで歩きやすい。駅前の駐輪場は繁盛していた。町を見ることはおもしろい。
 
 今日の新聞には、芦屋の男性が相続した土地6300㎡を市に寄付したと載っていた。一部は、以前から市の保護樹林の指定を受け、市民の開放されていたという。緑を守りたいという故人の遺志を生かしたいと思ったという。現在の相続制度では、土地を所有しながら緑を守るのは難しいと判断したという。記事を読みながら、がんこに「緑を守る」と意思を貫いた故人が亡くなったら、開発業者が次々と押し寄せて来るのだろうと想像した。
 父もみごとなら、子も立派。先祖が残してくれた土地は、子孫の宝。みどり豊かな芦屋を守りたかったんだろうなあ。これぞ、日本人の心意気。ジーンと響くものがある。

 昨日は、コーラスグループで発表会の歌を練習した。思いっきり歌うと、翌日は足腰から腹筋までが軽く筋肉痛となるから、歌うということはいかに筋肉を使うかよくわかる。何はともあれ、元気で自由に、自分の心を偽らずに、生きていられることに感謝しよう。

2008.10.10

朝日新聞、パワーハラスメント連載中 

 朝日新聞、生活面で、「あなたの安心」というテーマで、「パワハラを防ぐ」という連載をしている。
 パワハラをされている本人は、その真っ只中で悪戦苦闘している時には、それと気づかないし、気付きたくない。誰だって、自分が被害者になっていると自覚することは、苦痛だ。プライドが自覚することを妨げる。特に、議会のように、強さが求められる世界ではなおさらだ。いま、もう闘わなくてもよい状態になって、はじめて、自分が受けてきた理不尽なパワハラを、見つめることができるようになった。
 強烈なパワハラ体験から2年の月日が経ってやっと。あれは忘れもしない18年の10月16日のことだった。平成17年度の決算審査特別委員会での席上、私は強烈なパワハラ攻撃を、長時間にわたって受け続けた。
 議員時代のHPに、そのすべてを書いてある。読んでもらえば、パワハラの具体例が詳細にわかるはずだ。委員長という、質疑応答の指名権を握った人物が、明らかに私の質疑だけに、しつこく介入し続けた。そして、その必要もまったくないのに、真夜中の1時まで、審議の引き延ばしを強硬におこなって、発言を意図的に封じこめた。

 その理不尽さに、私の怒りは頂点に達した。周りの人たちは、みんな見て見ぬふりをした。誰も委員長の横暴に、一言も抗議さえしなかった。パワーハラスメントのパワハラたるゆえんだ。権力を持って、異常なまでに、それを振り回している人間を誰も止める勇気はない。

 それは私の孤立感を深めた。社会的正義が徹底的にないがしろにされるのを目にして、まともな感覚でいられる人間はいない。私のトラウマは、いまだに、記事を読んだだけで、フラッシュバックして、怒りと悲しみがこみあげる。心の深い傷=トラウマは、時計の針を止めてしまう。

 もちろん、パワハラは1回だけのことではない。継続的なパワハラはそれ以前にもずっと続いていた。それはだんだんひどくなっていた。しかし、私は自分の精神力を信じていたから耐えられると思っていたし、政治的信念と、使命感、市民の応援に支えられていたからどうにか耐えてきた。呼吸法や太極拳等、感情を自己コントロールできる方法を知ったことも大きかった。だが、人間には暴力に耐えられる限度というものがあることを、その時知った。限度を超えたとき、人はトラウマを抱え込んでしまう。人間を肯定的に見られなくなる。
 この1年半、会う人ごとに、「なぜ、議員を辞めたんですか?」 と何の悪気もなく聞かれた。だが、それは私にとっては辛い問いかけだった。なぜなら、そう問いかけること自体が、私の辛さがまったく伝わっていない表明だから。そして、そのたびに、私は自分の生々しい傷口に向き合わざるを得なかった。

 過去を引きずるなと、人は簡単に言う。私も人にはそう言ってきた。しかし、過去の傷にどう向き合い、どう回復させていくのか、頭ではわかっても、感情は容易には癒せない。だからこそ、暴力を許してはいけない。見て見ぬふりをすることは、加害者に加担することだ。

パワハラは、日本語の造語で、欧米ではモラルハラスメントというらしい。その時、それを制止できない集団は明らかに病んでいる。
 
 

2008.09.30

政治家の発言、レベルの低さは何を警告しているか

 「国家の品格」が売れると、すぐに「女性の品格」という本を女性が書き、マスコミの大宣伝の結果、売れたようだ。不思議なことに、一番問われるはずの「男性の品格」という本は出ないなあ。しかし、いま、一番問われるべきは男性の品格だろう。
 橋下知事の「クソ教育委員会」という言葉や、任命5日目で辞任した大臣、名前を覚えるひまもなく、覚える価値もないような無知蒙昧な発言を、「自らの信条だ」といいきって恥じない人もいた。大臣以前の国会議員としてもなぜ当選したのか不思議に思う人も多いだろう。まさに、政治家の品性も問われる時代になったとつくづくと思う。

 テレビ受けすれば、選挙で有利。不満をくすぶらせている人たちに受けるには、過激な言葉と、「ぶっつぶす」というような闘いのポーズを取れば良いとばかり、小泉パフォーマンスの効果を信じ込んで調子に乗っている人たち。醜いというか、あさましいというか、まともに批判するのもあほらしいと思っている人も多いだろう。
 新聞で批判しても、テレビで批判しても、批判も知名度のうちである。顔を知ってもらわねば、知名度が上がらねば人の口には上らず、票にはならない政治の世界である。

 辞めた大臣の事例は、激変する社会についていけないけれど、地盤、看板が強いおかげで選挙で生き残ってきた人が、政治の表舞台にたって公人として発言せねばならない立場に立ったとき、5日ともたなかったというお粗末なお話。国会議員としての長いキャリアはなんだったのだろう。一体、人々はこの人の何を評価して票を入れてきたのだろう。一票を投じた人が、自らの責任を感じない限り、また、次回の選挙でも当選するのが悩ましいところ。

 格言に、「多数の人を一時的にだますことはできる。少数の人を長い間、だますこともできる。だが、多数の人を長い間だますことはできない」という言葉がある。

 忘れていけないことは、多数の人が一時的にだまされている間に、世の中が坂を転げるように、急激に悪くなっていくこともあることだ。政治の恐ろしさは、まさにそこにある。だから、政治をあなどってはいけない。馬鹿にしてはいけない。

2008.09.02

アフリカ「母たちの村」を観て、日本を振り返れば

 昨晩は、BSジャパンで放送された「母たちの村」を見た。アフリカのセネガルでは、女子割礼が行われている。女性の性器切除を行うという無茶苦茶な児童虐待を、「イスラム教の教えが求めている」と言って強制している。小さな女の子たちが、恐怖にかられて助けを求めて逃げ込んだのは、娘に割礼を施さなかった女性の所。その女性が村の強制的な伝統と闘う中で、周りの女性たちや、男性たちが間違いに気づいていく物語だ。

 カッターナイフのようなもので行うので、ひどい時には、死亡する。その女性も姉たちを死亡させてしまい、最後に生まれた女児だけは守ることができた。だから、絶対に後には引かない。
 女の子がラジオを聞いて、イスラム教国でも、そんな伝統的強制が、他の地域では行われていないことを知って反抗的な言葉を吐くようになったと思った村長や長老たちは、女たちからラジオを取り上げて広場に集めて焼いてしまう。女たちを無知に閉じ込めておきたいという男たち。

 人の思い込みが、時としてどれほど残酷なことを強いることがあるか。それが宗教や、村、国等の風習や慣習となれば、枠外にいる人から見れば、命を奪う高リスクの人権侵害であっても、なかなか改めさせることは難しい。アフリカのことではないか、と思うなかれ。

 日本だって、女性たちの人身売買が横行しているし、先進国と言われている国だって児童の臓器売買が深刻な問題になっているという。振り返れば、「援助交際」などという造語をつくってまで、買春に伴うやましさを薄めようとしている男文化。言葉の汚染は見る目を曇らせる。心を腐らせる。

 学校教育で、現場の教師たちがまともな性教育を実践すれば、早速に「性教育バッシング」を国会で女性議員にやらせ、全国の教育委員会に自民党が調査書を送って圧力をかけ、「ジェンダー」という言葉狩りをしたのを忘れてはいけない。寝屋川市の教育長も、かつて、私にいきようようと言い放った。「ジェンダーと言う言葉は使ってはいけないことになりましたよ」と。 女子たちに、世界の流れを教えずして、無知の世界に閉じ込めようとしていると言えないだろうか。

 一方で、町中にあふれるポルノ雑誌やコミックマンガを通じて、女性を物化する非常に歪んだ性情報を野放しにして、何が青少年健全育成か? 男たちへの性情報の氾濫はどうしたことか。人権侵害もはなはだしい。まさに、本音とたてまえのダブルスタンダード。
 日本の文化と政治のレベルはコンビニで一目瞭然、隠しようもないl。外国から来た人たちが、日本のコンビニと本屋さんに入って、わが目を疑い、びっくり仰天しているのを知らないのだろうか。沖縄に来たアメリカの軍人がレイプ事件を起すのも、こうした日本の文化が影響していないと断言できる人がいるだろうか。

 ことほどさように、自分の国の文化と風景の異常さには、気がつかないものだ。国連の調査では、日本の女性の地位は、世界で54番目。民間の調査では91位の低さに位置している。日本女性の発言力の低さ、経済力の低さ、家に閉じ込め、無知のままに据え置こうとしているという点は一緒だと思う。少し、距離を持ってこの国を、女性の人権の視点を持って分析すれば、誰も「母たちの村」を笑って見られる人はいないはずだ。
 
 裏返せば、女性の人権から、政治、文化を観ることができない人が多数を占めているからこそ、こんな社会がまかりとおると言える。まさに、「母たちの村」は、私たちの国に通じる。

«女性を看板に使う、男社会にノー!