朝日新聞、生活面で、「あなたの安心」というテーマで、「パワハラを防ぐ」という連載をしている。
パワハラをされている本人は、その真っ只中で悪戦苦闘している時には、それと気づかないし、気付きたくない。誰だって、自分が被害者になっていると自覚することは、苦痛だ。プライドが自覚することを妨げる。特に、議会のように、強さが求められる世界ではなおさらだ。いま、もう闘わなくてもよい状態になって、はじめて、自分が受けてきた理不尽なパワハラを、見つめることができるようになった。
強烈なパワハラ体験から2年の月日が経ってやっと。あれは忘れもしない18年の10月16日のことだった。平成17年度の決算審査特別委員会での席上、私は強烈なパワハラ攻撃を、長時間にわたって受け続けた。
議員時代のHPに、そのすべてを書いてある。読んでもらえば、パワハラの具体例が詳細にわかるはずだ。委員長という、質疑応答の指名権を握った人物が、明らかに私の質疑だけに、しつこく介入し続けた。そして、その必要もまったくないのに、真夜中の1時まで、審議の引き延ばしを強硬におこなって、発言を意図的に封じこめた。
その理不尽さに、私の怒りは頂点に達した。周りの人たちは、みんな見て見ぬふりをした。誰も委員長の横暴に、一言も抗議さえしなかった。パワーハラスメントのパワハラたるゆえんだ。権力を持って、異常なまでに、それを振り回している人間を誰も止める勇気はない。
それは私の孤立感を深めた。社会的正義が徹底的にないがしろにされるのを目にして、まともな感覚でいられる人間はいない。私のトラウマは、いまだに、記事を読んだだけで、フラッシュバックして、怒りと悲しみがこみあげる。心の深い傷=トラウマは、時計の針を止めてしまう。
もちろん、パワハラは1回だけのことではない。継続的なパワハラはそれ以前にもずっと続いていた。それはだんだんひどくなっていた。しかし、私は自分の精神力を信じていたから耐えられると思っていたし、政治的信念と、使命感、市民の応援に支えられていたからどうにか耐えてきた。呼吸法や太極拳等、感情を自己コントロールできる方法を知ったことも大きかった。だが、人間には暴力に耐えられる限度というものがあることを、その時知った。限度を超えたとき、人はトラウマを抱え込んでしまう。人間を肯定的に見られなくなる。
この1年半、会う人ごとに、「なぜ、議員を辞めたんですか?」 と何の悪気もなく聞かれた。だが、それは私にとっては辛い問いかけだった。なぜなら、そう問いかけること自体が、私の辛さがまったく伝わっていない表明だから。そして、そのたびに、私は自分の生々しい傷口に向き合わざるを得なかった。
過去を引きずるなと、人は簡単に言う。私も人にはそう言ってきた。しかし、過去の傷にどう向き合い、どう回復させていくのか、頭ではわかっても、感情は容易には癒せない。だからこそ、暴力を許してはいけない。見て見ぬふりをすることは、加害者に加担することだ。
パワハラは、日本語の造語で、欧米ではモラルハラスメントというらしい。その時、それを制止できない集団は明らかに病んでいる。